ジョン万次郎は、漂流と救助、異文化での学び、帰国後の通訳・教育・海軍育成を通じ、鎖国体制下の日本に新しい扉を開く原動力となりました。ジョン万次郎が身をもって示した勇気・知的好奇心・公への献身は、現代に生きる人たちにも境界を越える力の尊さを教えてくれるでしょう。
この記事では、少年期から晩年までのドラマチックな軌跡と功績を時系列で追いながら、「なぜ万次郎は歴史に名を刻む存在となったのか」を紐解きます。
目次
結論:ジョン万次郎は“日米の架け橋”になった人物

本名 | 中浜万次郎(なかはま まんじろう) |
その他の呼び名 | ジョン万次郎:『ジョン万次郎漂流記』によって広まった呼び名 John Mung (ジョン・マン):船長が授けた英名 中浜万次郎信志:土佐藩の侍になった証拠の名前 中万:殺害しようとしている者をくらます隠語 土佐万様:航海術に長けていたことから 咸臨丸の船員が敬意を表して使用 |
生誕~死没 | 1827年1月27日(文政10年)~1898年11月12日(明治31年) |
国籍 | 日本 |
ジョン万次郎の本名は、中浜万次郎(なかはま まんじろう)です。米国では養父ホイットフィールド船長から “John Mung(ジョン・マン)” と呼ばれ、この愛称から後に「ジョン万次郎」が定着しました。
漂流から帰国後までに彼が習得した知識・技術を社会へ還元し、通訳・教育・海軍育成など多方面で“日米の架け橋”として活躍した具体例を時系列にまとめると以下のようになります。
ジョン万次郎の主な功績
- 鎖国下の日本人として初めてアメリカ本土に上陸した
- 英語・航海術・測量など当時の最新知識を修得し、帰国後ただちに社会へ還元した
- 幕府と米国双方の意思疎通を支援した
- 私塾や口述書で若き志士に“世界基準”の視野を授けた
- 国家間の理解を拓くモデルとして今なお称えられている
次章からは、この偉業の裏側にある時代背景などもたどりながら、その生涯を詳しく追っていきます。
少年期:漂流と無人島生活――14歳のサバイバル

1827年1月27日(文政10年1月1日)、現在の高知県土佐清水市中浜の小さな漁村で、半農半漁の貧しい家庭に次男として万次郎は誕生しました。9歳で父・悦介を亡くし、病弱な母・汐と兄を支えるために働きに出た万次郎には、寺子屋で学ぶ余裕がなく、読み書きもほとんど身につけられなかったと伝えられています。
しかし10歳のとき、奉公先の過酷な重労働から脱走し、「海で稼いで家族を守りたい」という一心で漁師見習いとなりました。この家族を思う責任感と現状を変える行動力こそ、後年の大きな飛躍を支える原点となります。ここから少年ジョン万次郎は、次のような過酷な体験を味わうことになります。
- 14歳で仲間とともに小舟で太平洋を漂流
- 約1週間後に伊豆七島南方の無人島・鳥島(とりしま)に漂着
- 約4か月のサバイバルを経て、捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される
ここでは、漂流生活から救助に至るまでの少年期を、時系列で紐解いていきます。
漂流〜鳥島での約4か月

1841年1月、初漁に出た14歳の万次郎は、小舟で仲間4人と沖へ出た矢先、3日目に暴風に巻き込まれました。帆も舵も利かないまま海をさまよい、さらに6日間、寒風と高波に締め上げられた末に辿り着いたのが、太平洋に浮かぶ絶海の孤島・鳥島でした。鳥島は、東京から南へ約580 km、土佐清水からは約740 kmという無人島です。
火山島である鳥島には淡水も木陰もほとんどなく、万次郎たちは火山岩を砕いて雨水をためる穴を掘り、素手で捕えたアホウドリやウミガメの肉・卵で命をつなぎます。
それでも、黒潮に乗ったまま北へ流されていれば真冬の海で凍死していた可能性が高いことを踏まえると、鳥島は厳しいながらも唯一生き延びられる場所でした。
捕鯨船ジョン・ハウランド号との運命的な出会い

しかし5月になると渡り鳥のアホウドリは去り、食料が尽き、救助を求める相手も見えません。
極限の飢渇と絶望が頂点に達した143日目(約4か月半)、ウミガメを求めて偶然立ち寄ったアメリカ捕鯨船「ジョン・ハウランド号」が5人を発見・救助しました。このときのホイットフイールド船長の航海日誌に以下のような記述が残されています。
1841年6月27日,日曜日 南東の微風あり。午後一時島を目にする。海ガメでもいないかと、ボート二艘を調べに出す。漂流者五名を発見し、ただちに本船に収容する。五名,飢えを訴えるも、他は一切理解不能。島の位置,北緯30度31分
引用:http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/2224/1/KJ00005128666.pdf
アメリカ体験:異文化と最先端教育を吸収

- 1843年、船長一家の一員としてマサチューセッツ州フェアヘーブンに迎えられる
- 日本人留学生第1号として当時の最先端技術を吸収
- 1850年前後、カリフォルニアへ渡って帰国資金600ドルを稼ぐ
以下の各節で、その足跡を具体的にたどります。
ホイットフィールド船長と養父子関係

万次郎を救ったウィリアム・H・ホイットフィールド船長は、船上で光った万次郎の行動力と機転に心を動かされ、渡米を提案しました。航海中、万次郎は身振り手振りで甲板作業や炊事を覚え、自発的に雑務を引き受ける姿勢を示します。その献身ぶりに敬意を抱いた船長は、船名にちなみ “John Mung(ジョン・マン)” という英語名を授けました。
ほかの漂流仲間が心配するなか、万次郎は渡米を決断。
やがて万次郎はマサチューセッツ州フェアヘーブンのホイットフィールド邸で養子のような生活を始めます。万次郎は農場仕事を手伝いながら家族と同じ食卓に着き、船長を「ファーザー」と呼んで深い敬愛を示したと伝わっています。
数学・測量・航海術・英語を修得

船長夫妻は衣食住を提供するだけでなく、英語をはじめ数学・測量・航海術を学べる学校へも通わせ、学費や日用品を惜しみなく支援しました。
万次郎は、オックスフォード・スクール → スコンチカットネック・スクール → バートレット・アカデミーと段階的に進学し、日本人留学生第1号として本格的な西洋教育に臨みました。
机を並べるのは白人の小学生たちでしたが、年下に交じりながらも、万次郎は毎晩ランプの火で復習し、首席で課程を修了したと伝わります。
授業以外でも、船長の農場で西洋式農機具の扱いを体験し、町の教会では民主主義と信教の自由に触れる一方、人種差別の現実も経験。有色人種であることを理由に差別的な扱いをされ、これに怒ったホイットフィールド船長はその教会を去った等のエピソードが残されています。※参考:https://manjiro-or-jp.secure-web.jp/foundation/kusanone/kusanone_tsushinvol.107.pdf
学校を卒業後は捕鯨船に乗り、「地球は丸い」を体感するほどの長距離を航海し、万次郎は最終的に副船長まで昇進します。
ゴールドラッシュで稼いだ600ドル

二度目の捕鯨航海を終えた1850年前後、カリフォルニア・ゴールドラッシュの熱狂が万次郎の耳に届きます。
故郷の母が気になった万次郎は「帰国資金を自分の力で用意する」 という強い意志のもと、仲間の船員に混じって現在のサンフランシスコに向かい、金鉱にて金を採掘する職に参画しました。
万次郎は帰国の航海費用と漂流仲間への支援金として、600ドルを確保します。当時の600ドルは現在の数百万円に相当します。
帰国までの長い航海と幕府の取り調べ

鎖国下の日本への帰国は慎重に事を進めなければ、命に危険が及ぶ可能性もありました。
以下は、その長い帰国プロセスをひと目で追えるトピックです。
- 琉球・那覇で約5か月の身元調査
- 薩摩・鹿児島で約2か月の事情聴取
- 長崎奉行所で約10か月の尋問
- 徒歩半月を経て、土佐へ帰還
各プロセスの詳細を以下で解説します。
琉球→薩摩→長崎→土佐

1850年、万次郎を含む元漂流者3人は、上海行き帆船サラ・ボイド号(Sarah Boyd)に乗船し、鎖国下の日本に近づく“もっとも安全な玄関口”として琉球王国(那覇)をめざしました。那覇上陸から故郷高知へ帰るまで、実に18か月。その軌跡を下表に整理しました。
月日 | 概要 | 滞留期間 |
---|---|---|
1851年2月 | 那覇に上陸。 番所で取り調べを受け留置 | 約5か月 |
1851年7月 | 薩摩・鹿児島へ送致。 島津斉彬から事情聴取 | 約2か月 |
1851年10月 | 長崎奉行所へ移送。 踏絵を含む尋問 | 約10か月 |
1852年6月 | 土佐藩に引き渡し。 高知城下まで徒歩で帰還 | 徒歩半月 |
数回にわたる取り調べを経て、土佐藩へ帰還後、漂流から11年後に万次郎は母と再会することができました。
上記の綿密な取り調べは、鎖国下で海外情報の希少さゆえの警戒であると同時に、万次郎の知識を藩政に取り込みたい各藩の思惑でもありました。薩摩藩から長崎奉行・牧志摩守宛の送り状に以下のように万次郎を丁重に扱うよう促しており、貴重な人材として扱われていた形跡があります。
万次郎が儀、利発にして覇気あり。将来必ずや
お国のために役立つ人材であるがゆえ、決して粗末に取り扱わぬよう
引用:http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/2224/1/KJ00005128666.pdf
漂流者から英語通詞へ抜擢
11年ぶりに土佐へ戻った万次郎ですが、わずか3日後に再び取り調べの席に呼ばれます。
藩主 山内豊信(容堂) 自らが司る2か月半に及ぶ聴取を経て、万次郎は異例の早さで士分に取り立てられ、藩校〈教授館〉の教授として英語と算術を講義しました。
幕末での活躍:通訳・教育者・技術伝道師

1853年(嘉永六年)の黒船来航を境に、万次郎は通訳・教育者・技術伝道師という3つの顔で幕末日本の最前線に立ちます。この幕末期における万次郎の主な出来事は以下のとおりです。
- 1853年 幕府英語通詞に就任
- 1854年 日米和親条約を裏方で支援
- 1856年 軍艦操練所・教授所の教授に就任
- 1860年 咸臨丸で太平洋横断
ここでは、万次郎が幕末日本にもたらした実務的インパクトをたどります。
ペリー艦隊・日米和親条約交渉を支援
1853年7月8日(嘉永六年)、浦賀に黒船が来航したことから、幕府は対応策として急きょアメリカ情報を欲します。
7月25日には万次郎を江戸に召喚し、中濱姓と直参旗本格を与え、海防掛総裁 江川英龍の配下に置きます。こうして漂流者だった万次郎は正式に英語通詞へ転身しました。
しかし、保守派は帰米の恐れや米国の回し者といったスパイ疑念を示し、公式通訳からは外されたものの、幕府は黒船の構造解析や大統領親書の翻訳を万次郎に依頼し、蒸気機関・砲列配置・交渉慣行を詳細に報告させました。
公式の舞台からは度々外されながらも、万次郎は確かな言語力と実務経験で交渉を支え、1854年(安政元年3月)、幕府は日米和親条約を比較的穏便な形で締結します。
咸臨丸クルー指導と海軍草創
1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府は公使一行を米国へ派遣しました。この際、随行艦として選ばれたのが日本初の本格的な蒸気軍艦・咸臨丸です。
万次郎は英語通訳兼航海指導役として乗艦し、重い船酔いで指揮を執れなくなった勝海舟を補佐しながら、船内の秩序と操艦を実質的に取り仕切りました。
太平洋横断では、万次郎が六分儀による天測や航路計算を実演し、米国式の当直体制や海図の読み方を一つひとつ乗組員へ丁寧に教え込みました。
私塾で若き志士を育成
帰国後、万次郎が翻訳した『ボーディッチ航海術書』や自ら編んだ『英米対話捷径』は、軍艦操練所・軍艦教授所の正式教科書に採用されました。
測量術・航海術・英会話の授業を通じ、大鳥圭介や箕作麟祥など後の海軍人材が育成され、万次郎の知識と現場経験は日本海軍草創期の土台として受け継がれていきます。
晩年期:教育者を貫いた軌跡

幕末の荒波をくぐり抜けた万次郎は、薩摩・鹿児島での出張授業を皮切りに、新政府の開成学校で英語を教え、さらに普仏戦争視察団に加わって欧米を再訪します。ここでは万次郎の晩年記を辿ります。
明治政府での開成学校教授
1867年(慶応三年)、薩摩藩の招きで鹿児島に赴いた万次郎は、航海術と英語を教授して若い士族に西洋式の知識を伝えました。しかし十二月、武力倒幕の機運が高まると安全を考えて江戸へ戻ります。
明治維新後の1869年(明治二年)には新政府から英語教師として招聘され、開成学校(現在の東京大学)で講壇に立ちました。かつて漂流少年だった彼が、国家の最高学府で英語を教える立場になったことは、近代日本の象徴的な転換点といえるでしょう。
再訪米・ヨーロッパ視察
1871年(明治三年)には普仏戦争視察団の一員として欧州派遣が決まり、万次郎は大山巌らとともに横浜を発ちます。途中サンフランシスコとニューヨークに立ち寄り、フェアヘーブンで恩人ホイットフィールド船長と約20年ぶりに再会しました。
再訪の記念に佩刀を贈ったという逸話からは、少年期に結ばれた養父子の絆が生涯続いていたことがうかがえます。その後ロンドンに到着したものの病を得て帰国の途に就き、スエズ運河経由で帰朝しました。
顕彰運動と晩年の暮らし
帰国後に軽い脳溢血を起こしましたが、数か月の静養で日常生活に支障がないほど回復します。
政治家への誘いもありましたが、万次郎は一貫して教育者の道を選び、若者に語学と航海の知を授け続けました。
晩年になっても小笠原近海で実習航海を行ったという雑記が残り、71歳で没するまで海と学びから離れなかった生涯でした。
ジョン万次郎の足跡を辿る旅ガイド
ここからはジョン万次郎の足跡を辿る旅ガイドと題し、博物館などをまとめました。
各施設では体感的にジョン万次郎の足跡をたどることができます。
高知県土佐清水市 ジョン万次郎資料館

施設名 | ジョン万次郎資料館 |
住所 | 高知県土佐清水市養老303 |
入場料 | 大人 440円 子ども 220円 |
営業時間 | 8:30~17:00 |
ジョン万次郎の生家跡にほど近いこの資料館では、漂流から渡米、帰国後の幕末・明治期の活躍までを豊富な実物資料でたどることができます。
アメリカ・フェアヘーブンで使われていた本物のドアノブや六分儀、ホイットフィールド家ゆかりの品々が展示され、臨場感は抜群です。
館内には軽食コーナーが併設されているため、展示をじっくり見学した後にひと息つくこともできます。所要時間は60〜90分ほどを目安にすると、映像シアターや体験型コーナーも余さず楽しめるでしょう。
ホイットフィールド 万次郎友好記念館
施設名 | ホイットフィールド 万次郎友好記念館 |
住所 | 11 Cherry Street, Faithaven, MA 02719 |
入場料 | 大人$5、シニア$3、学生$2、6歳以下無料 |
営業時間 | 不定期 |
万次郎が“ジョン・マン”として暮らしたホイットフィールド船長邸を当時の姿に復元した記念館です。
2007年に売却の報を聞いた医師・日野原重明氏が寄付を呼びかけ、米日双方の市民募金によって保存が実現し、2009年に友好記念館として公開されました。
開館が予約制となる場合もあるため、確実に訪問したい場合にはオフィシャル情報をご確認ください。
まとめ:ジョン万次郎の生涯は今を生きる我々にも響く内容ばかり
没後100年以上経過してもジョン万次郎の功績は色褪せず、現代を生きる大人にも響きます。
壮絶な遭難から学び・挑戦・奉仕 を繰り返しながら、日本とアメリカを結びつけたジョン万次郎は息子達への教訓として、「決して諦めてはいけない」と常々語っていたそうです。
万次郎のご子孫方は現在名古屋で医師をされており、今もホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けているとも聞き、脈々とご縁が受け継がれていることに感銘を受けました。
2025年に土佐清水市足摺岬を訪問したとき、地元の人々も「誇り」としている印象がありました。
ジョン万次郎の故郷、土佐清水市では大河ドラマ誘致を積極的に行っており、民宿の女将さんもそれについて語っていたのが印象的でした。
万次郎の生涯は、境界を越える勇気と多様性へのまなざしが、社会を前進させる力になることを教えてくれます。
もしこの記事で興味を抱いたなら、ぜひ土佐清水市のジョン万次郎資料館やフェアヘーブンのホイットフィールド邸など、ゆかりの地を訪ねてみてください。